ま、結局…

ニセ科学批判者は、総じて善人らしい。

「この世の中はフェアなルールと理性と良識によって動いている」「そのルールにそって戦えば、正しい側が負けるはずがない」という、一体どんな生活を送ってきたのか不思議なくらいの純真さだ。

でも、それが無くなっちまったら、なんのためのニセ科学批判なのか分からないものな。正しい知識が、理性が勝利を収め、それが人を幸福にするという信念がなくては。

ただし…ただし…こういう、純真さというやつは逆境にぶつかったときに、どうなるか分からない。
そこが心配ではある。例えば、身内が信仰治療にはまったとき、「それ科学的証明がないでしょ」「正規の病院の治療記録もないでしょ」「だめだよそんなの信じちゃ」「とにかくちゃんとしたお医者さんのところに行こうよ」と、苦労しそう。
盲信っていうのは理屈じゃないんだよなぁ。正確にいうと、理詰めで考えた先の答えが怖くなった人の逃げ場、かな。特に医療ってのは死と苦痛が抜き差しならない。本当は患者だけでなく、医者が強い誘惑にさらされてる訳だけど。そういうケアも不十分だと思う。それが一定の「科学からの転向者」を生み出す要因になってるよな。

まぁネットで患者についてのグチをぶちまけたり、医療過誤問題に反駁してるだけで、ストレス解消(って言葉も厳密には科学的証明はないんだが)になるなら、ある程度、このお遊びにも意味はある。お遊びに参加する医師が誘惑に流されなくなる効果があるといいね(多分、逆境に直面したらなんの効果もないと分かるだろうけど)。

田母神の扇動も同根で、正しい知識と理性があれば操られたりはしない…という出発点から間違っているんだよなぁ…しかしその話題は脇に置こう。

結局、ニセ科学に惹かれていく人をどうすればいいのか。「ニセ科学批判でヒトは死なない」っていえば、めぐりめぐって転ぶ人が減るのかっていうと、まずないわな。

さて実際には幾つか対処法があり、実践されている。

(1)まず宗教と手を組む。
不思議なものだが、お坊さんなり神父さんなりは、科学に関してはプラグマティストである人がけっこういる。そして、なにより、カルトやニセ科学の犠牲になることを憎む、戦士もいる。人選が難しいところだが、その人となりを確かめて信頼できる誰かを、精神的支柱にし、その人を通じて説得を試みる。
俺は宗教って基本的にキライだけど、医師が体の専門家なら、宗教家は心の専門家だ。まぁそこがニセ科学を使う連中の怖いところでもある。

そういう役割を果たせるなら、宗教家に限らず民生委員とか、弁護士とか、親族の誰かとか、でもいいんだけど。セラピストとかは寡聞にして知らんけど、精神科医とかは個人的にはイヤだな。彼等に助けてもらえたことは一度もない。

「じゃクスリ(向精神薬)出しときますね」

君ら、ほかになにかないのか。なんて大声でいうと「いやそんな医師は例外でほとんどの医師は立派で悪いのは無理難題をいう患者」とかご丁寧にコメント付けたりする方もいるかもしれんけど(いないか)。うんうんそうだね。しかしほら、例外にあたることもある訳だ。

よい人に巡り会えたとしても、戦いはその人をボロボロにしてしまう、犠牲にしてしまうこともある。ニセ科学なんてくだらないもののために、立派な人が苦しい戦いに巻き込まれたりするのは切ないよな。しかし四の五の言ってられない。

(2)相手の犯罪性を暴く。

相手の目的が要はカネで、だいたい後ろ暗いことやってる場合に、被害者の会とかを通じてその裏を暴いて、目を覚まさせる。ていうか行政機関がよくやる手。相手を犯罪者にしちまえば、かなりイメージ操作ができる。でも、それって、うまくいったとして患者にとって「だまされた自分が愚かでみじめ」「けっきょく救いはなかった」って認識させる訳で、根本の解決にはならない。新しいニセ科学なりカルトなりにはまる場合もあるしね…。

(3)ニセ科学にひきずられる根本原因を解決する

CAMだって、要するに医療機関が誠実に対応してくれない。明るい展望を聞かせてくれない。カネがかかりすぎる。少しもよくならない。諸々の不満を飲み込んで大きくなった訳だ。

医療機関側にも多分に責があるなんていうと「いや悪いのは患者で医師は悪くないったら悪くない。こんなにボロボロになるまで働いているのに患者の心のケアまでできるかーアホー」とかコメント付ける人がいるかもしれないけど(いねぇわな)。つかネットでそんなこと喚いてる医者は、本人に心のケアが必要なんだろうけど…。精神科医以外のな…クスリ(向精神薬)出しときますね…じゃねぇ…。

ああそうそう。だから、ニセ科学は、科学が約束できないもの。つまるところ奇跡を提示する。
CAMも近代医学に約束できないものを…ときに約束する。科学を装うために、「できることとできないこと」を線引きしてみせるニセ科学というのもある。そのうえで、やはり科学にできないことを約束する。

しかし、本当にそこまでの奇跡が必要なのか。苦しむ患者や身内に、どこかでその苦しみに折り合いをつけさせることはできないのか。つか真剣に探せばCAM以外にも治療方法はあるかもしれない(扁桃腺を切るアレとかじゃなくてね)。患者の医療情報へのアクセスを改善するなら、まず近代医学のさまざまな可能性についてのアクセスを改善する。あるいは支援団体へのアクセスを改善する。奇跡以外でも、人は救えるかもしれない。
と、始めたものがいつのまにかアヤスィー世界に入ってちゃったりするから怖いんだけどね…。

あー。まぁあんまりうまくはいかんな。
うまくいくならニセ科学なんてなくなってるもんなぁ…。


【追記】2009/02/24

「主張が可能」と「主張が妥当」は別物
http://d.hatena.ne.jp/genb/20090223/1235391927
とか読むとカワユーイとか思っちゃうけど、そうも言ってられなくて。
てか、多分この人は身内が被害に遭う事態なんて想像もしてないんだろうけどね…。

上記記事のコメント欄に私が書いたような小話は、実際はもっと巧妙にやられてる。あんなオチャラケをやるニセ科学の商売人はいない(違法性をすぐ追求されるようなマネはしない)。実際は言質をとられないようにしながら、正規の医療の問題点を突つきつつ、あやしげな治療の効果を訴える。悪徳商法マニアックス当たりに事例があるといいんだけど。

一方で、省庁(厚労省とか経産省とか)が宗教法人に行政処分する大儀名分作りや、警察の取り締まりも進んでいる。まぁ行政の野放図な権限拡大はそれはそれで問題だけど…。ただテレビやニュースサイトを観て、正義の鉄槌に感心して「インチキをすればちゃんと罰を受けているじゃない」と思ったとしても、要するにあれは一罰百戒というか、氷山の一角に過ぎなくて、似たような商売はもじゃもじゃと山のようにあるのさ。

そういう状況と、「ニセ科学批判でヒトは死なない」とかいう台詞の温度差。被害の軽減に一ミリたりとも寄与しない、自己満足のかっこいい台詞をもって「何か成し遂げる」とかいってる連中のおめでたさ。それにブーブー言ってる俺も含めて、つくづく救えないアホどもだなと思うよ。

たちが悪いのが、そういう本気のかけらもないお遊びのニセ科学批判で、ニセ科学に対する批判そのものが陳腐化していき、唾を引っかけられるようになるってことかな。誰も止めようとする側の真剣さを信じなくなる…てことはないとは思うけど。誠意があるヒトがいっしょうけんめい働いてる場合はね。
どっちにしろ、こうした内輪っぽいブログサークルのごっこ遊びなんて、本当に困っているヒトの目には止まらないかもしれない。実際のところは益もない代わり害もないのかもしれない。