いかにすべきか。

テレビ番組の出演者になるということは、一つの社会的地位を得るということだ。
出演者のいうことを真面目にとらなくなるとか、軽く考えるようになる、という効果はない。
いや、なくはないが、そういう反応をするのは視聴者のごく一部でしかない。
はじめから番組に対して批判的なスタンスを持つ人、あるいは無関心な人で、番組の視聴者の多くは、好きで見ているのだ。

大衆はテレビの出演者に対しては警戒心を解くというのは正しい。しかし視聴者は出演者を「己より一段低く見る」訳ではない。これはしばしば、視聴者がアカの他人である出演者に気安い態度をとることから誤解されるが、実際にはむしろ「一段高く見る」のであって、それに伴って主張にも高い評価が与えられる。と同時に出演者に政治家への道が開かれる。
つまりは由々しき問題だ。(出演が繰り返されれば、という但し書き付きで)

で、いかにすべきかということになると。

ごく地道な活動が必要だ。まず番組の内容を観て、問題点を洗い出し、偏向していると感じる内容があれば局に抗議し、より公正な新たな番組作りや、反対論者の出演などを求め、多角的に意見を紹介して、視聴者の判断の助けとするよう求める。またPTAなど、放送の心理への影響についてアレコレ言う地位にある団体で取り上げ、問題にするよう図る。番組のスポンサーにも批判の手紙などを送る。かくて障害を設け、局に片棒を担ぐリスクの大きさを感じさせる。まだ社会の反発は強いのだと意識させる。

つまりはネット右翼が得意とするようなプロ市民的活動に精を出す訳だ。
ところが、ロッキングチェアを本拠とする左翼はそういう作業に勤しむ自分を想像しただけでオエッとなり、ぐったりしてしまう。

ネット右翼はそういう活動が楽しい、楽しくてたまらず、無限の活力が沸いてくる。ところが左翼は楽しくない。やるべきかな、と思うかもしれないが。行動に結びつかない。そんなウンコみたいなことをするくらいなら、人生にはほかにマシなことが幾らでもあると考えるし、だいたい本人の品性が耐えられない。

ネット右翼にとってたやすいプロ市民活動が、左翼には恐ろしくハードルが高いのだ。

だから「元空幕長はあんな活動はけしからんね。庶民がカンチガイをせぬか心配だ。しかし逆に考えるんだ。彼にとってこんなデメリットもあろうね」とお上品にお茶をにごす。これだけで行動しない言い訳はすべてできてしまう。みんな、そうだね、そうだね。といって終わりだ。

ネット右翼は社会的にも、心理的にも失うものがない。自らの品性とか、醜さなど気にかけない(というかイナゴ化して騒ぐことにおぞましさを感じない)。その言動はたしかに論理とか知性とかいった面に照らせば穴だらけだ。しかしそんなことは構わない。最初から問題じゃない。大切なのは「空気」なのだ。とにかく押せ、押せ。押せると思えば押せ。それで目的を達しさえすればいい。

ところが左翼は、石橋を叩く。これは論理的にみて矛盾していないだろうか、この行為は適切といえるだろうか。これによって表現の自由を侵害するといえないだろうか。自らの思想信条を裏切ってはいないだろうか。公正か?理性的か?意味があるのか?ぶざまに見えないか?誰かの失笑を買いはしないか…うむ。やはり、いつものアレでいこう。にぶい疲労と皮肉と、理性ある人物としてのほどよい危機感と。良識ある市民のポーズを。

志も問題意識もちっとも彼等と同じじゃないが。口先ばかりで行動しないという一点において、なるほど俺も同じような役立たずだ。

【追記】2009/02/19
田母神前空幕長が石破氏批判 「偏っているのはあなただ」
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/78201

これを読んだはてサや、在宅軍事専門家の反応が手にとるように予想できる。

「なんて愚かな自民党議員」「国防の要諦を理解せぬ素人ども」「しかしこうした風潮が蔓延するのは問題だ。国民の代表にはもっと知的である必要があるのに」「インテリジェンスが大事だ」。以上、終わり。

まぁ石破某はともかく、在宅軍事専門家が田母神を嫌ってるのは、彼等のお大事の米軍様に対して田母神が軍事の独立みたいな一説をぶったのがしゃくに障る。その一点だと思うがね…。

じゃぁ私はどうみるか。「自民党本部で一説ぶつという既成事実がほしかった」「党のお歴々へのあらためての顔見せ」。中山議員が所属するという会のデモンストレーション。つまりは政治、政治、政治。その「発言内容がバカバカしい」とかだけでは、意味をつかみそこなる。ま意味なんてつかみとりたくないだろうけど。