本質的な問題は

左翼はつまらぬ批判者であり、行動の主体ではなく、つねに現状維持、守る側になってしまっていることだ。逆に右翼は行動者で、現状に変化をもたらすものであるということだ。
かつてと右左の役割が逆転してしまっている。しかも右派は保守・反動を兼ねている。

左翼には中心となるべき前進力を持った運動がない。憲法社会保障の「維持」や、「すでに定説となった」戦争犯罪の立証という行為は、すべからく保守的なもので、変化を望む人々の要求に応え得ない。労組が正社員の待遇を守ることが、すでにそこから漏れた非正社員には意味がないように。

私だって「はてサ」だって同じだ。常に傍観者、いかなる運動にも参加しない。せいぜい言葉を並べて変化を防ぎ、守ろうとするだけ。そして言葉で制止できない急激な右翼の行動にはただ鼻白み、「うまくいきっこない」「どうかしてる」とぐちるだけ。

そういう後ろ向きの姿勢につくづくイライラさせられるのだが、それは自分に対するいらだちに過ぎないかもしれない。だから「志が同じ」なんて言われるとぞっとする。

以前、台湾や韓国で左派革新政権が誕生したのは、彼等が変化の担い手だったからだ。守るのではなく攻める側だったから。だが日本の左派はそろって守る側なのだ。あまりにも守るべきものが多すぎるから。まるでプーチンにボロ負けを続けるロシアの共産党だ。

だから左翼らしい、つまらぬ批判が、そちらにも向く。もちろん自分が運動を起こさない限り意味がない。今の先細りの生活にしがみついているのなら同罪だ。しかし同じ状況にとどまっている左派が腐るほどいる。要するに日本では日常はまだ幸福だということだ。暮らしに満足しているということだ。