二次創作にもっと「自由」を

id:fjskさんの言葉にこもるのは、このまま野放図に二次創作が広まれば、反動ですべてが禁止され、元も子もなくなる。という危惧だと思う。

だからコミケが常にぎりぎりのラインで権利者側の妥協を導いてきた、という歴史をひもといて、火遊びをするな、さもなければすべて失ってしまうぞ、という。それは、過去の経緯からして、まともな認識だと思う。

しかし、それでも私はウェブで二次創作を行っていいんだ。もっと自由に、もっと野放図に、もっともっとと思う。

あそこにだけ自由がある、という意味でコミケが「自由の場」というなら、私にとってそれは「不自由の象徴」だ。年に2回。特定の場所でだけ許される行動は、ちっとも自由じゃない。とてつもなく楽しくても、やっぱり自由じゃない。ほかの即売会にしても同じこと。

でも無制限の自由などありえない、現実をみろ。私達は悪いことをしてるんだ。「黒」の行為をこそこそ楽しんでるんだ。日のあたる場所に出れば叩かれてしまうんだ。それを忘れるな。その通り、その通り、その通り。でも違う。

もし若者たち「新参者」が二次創作を、黒だと思わずに、警戒心もなく、野放図に、やりたい放題に、無邪気にやっているんだとしたら、それこそ素晴らしいんだ。それが自由なんだ。カニグズバーグのドラゴンよりもどうしようもない。それを終にはウェブという枠組みも超えて、街でも、どこでも、やるようになればいい。

一方、「ここまで、ここまでで抑えよう。守るために、私たちが常識を知らないパンピーどもを抑えよう。権利者にもっと毅然とした態度をとるように働きかけよう。良識のある二次創作を」。自主規制。自警行為。グレーゾーンを守るためにと、それが自由を狭める最初の一歩だ。もしコミケの自由に身を奉じる人が、彼等の「自由」を守るために、ウェブの二次創作を制限し、押さえ込むをよしとするなら、それは…。

善意の自主規制というもの、「自由を守るため」の自由の制限。繰り返し繰り返し。その理屈を目にしてきた。だが…。

「何も知らないくせに!」と叫びたくなる。一度も味わったことのない無花果の畑を焼く男に向かって、「お前はこれがどんなに甘く、渇いた喉を癒し、人に生きる希望を、灰色の暮らしに彩りを与えてきたか知らないくせに」と。でも男の手は止まるだろうか?止まりはしない。「それでも俺は焼くのだ。仕事だから。当り前のことさ」と。

ではどうする、言葉で説明するのか、その甘味を、香気を、口にした少女の笑顔を。老爺のくつろいだほほえみを。
「それでも俺は焼くのだ」という男の決意を変えられるか?

だめだ。では殺すか?できっこない。私はこんなに貧相な、臆病なくずだ。

なぜ、ポケットに、いつでも差し出すことのできる無花果を入れておかない。いや、無花果の味で男の手を止めることができるのか…。相手の舌はとうの昔に火酒で焼けただれて、ほかの味は分からなくなっている。ひょっとしたら、市場で買った干し無花果に銅貨を一枚払ったことは覚えているかもしれないが。もう味わうことはできない。つまり、男にとって、無花果に価値はない。

だから。ひとつのこと。男が焼き払っているあいだ、苗木を集めておくんだ。小蜂を捕まえておけ。そして隠せ。
育て方も、味わい方も黙っていろ。喜びも教える必要はない。彼は求めていない。
秘密の庭を作れ。時を待て。生き延びろ。やがて、やがていつか解放は来る。
私が死ぬ前に来なければ、その庭を、誰かに譲り渡してやる。でも。そのときには、その子に言うのだ。

「これはずっと隠しておくためのものじゃない。いつかは、いつかは誰もが無花果を口にし、そして苗木を持って行き、庭を作ることができるようになる。無花果だけではない。ありとあらゆる潅木の林が茂り、虫達が(刺す虫もいるぞ。甘い蜜を蓄えるものも)ものうく羽音を立て、鳥や獣が住まう半野生の庭園が蘇るのだ。そうしたら、再びあの男たちが、大農場からやってくるまで楽しみなさい。驟雨のあとの砂漠で、かたとき命が狂い咲くように。でもそれが永遠になる日を、望みつづけるのは忘れるな」

そして自分の庭を守るために人の庭を焼くのを手伝う真似はしないぞ。決して。