このままネット検閲の弊害を唱えても抽象的すぎるのか

くどくどとちょっかいをかけて申し訳ない気持ちだが、やる。

小倉先生の参戦を期待
http://d.hatena.ne.jp/mkusunok/20080419/sakichan

小倉先生に対して いくらネット規制法案の問題点を訴えても、一向に相手の心を打てないのは、検閲による「被害の実例」を十分に示せていないからだ。と私は結論する。

小倉先生は、すでに出会い系サイトを通じて子供が売春する実例や、それによって児童ポルノが作成される「実例」を見ているし、いじめの「実例」も目にしている。

人は、抽象的な思想/理念より、目の前に突きつけられた残酷な事実に心を動かされる。
そしてそれをもとに判断する。たとえば奥村徹弁護士が、子供に携帯電話なんて持たせるな!とまで書くのだって、被害の実例を山ほど見ているからだ。

熱狂的な宗教者でもなく、言論統制による政府権力の強化を考える官僚でも議員でもない。理性的な一市民が、そうまでネット規制の正しさを説くのは、たくさんの被害の実例が、彼(彼女)の感情の奥深いところを動かしているからだ。

それに対し、検閲によって失われる「知る権利」「表現の自由」とか、政府による情報統制の危険なんて、あまりに抽象的すぎるんだ。

規制反対派が、被害の実例をひとつひとつに対し、規制をしても被害を防げない「可能性がある」とか、新たにこういう弊害が生まれる「可能性がある」と訴えても、だめだ。空想は事実に比べてまるで重みがない。

じゃぁどうするのか?どんなに問題のある法律も、それ制定されて運用されて、弊害が明らかになるまでは、止められないのか?いつの日か小倉先生のような人々がネット規制の弊害を認識し、考えを変えても、その時はもう、遅すぎるかもしれない。そうなって「それみたことか」といって溜飲を下げられるとはとても思えない。

現時点で日本に存在しない法律の弊害を説くのは難しい。

方法としては二つ、「日本で過去にあった検閲」、「海外で行われている検閲」を調べて、その弊害を明らかにすることだ。それらを列挙し、分かりやすい形で、検閲の恐ろしさを訴えていくことだ。

現在の日本で起きる児童売買春やいじめに比べ、インパクトは弱いかもしれない。

しかし、具体的な事実は人の心を打つ。きっと小倉先生の心も動かせる。小倉先生だけでなく、ネットを悪用した犯罪の現状に心を痛めるがゆえに規制賛成に回った人々に、規制による弊害を理解してもらえる。そして、避けようがない規制に対して、一定の歯止めをかけられる。
そう信じる。

まったくの余談ながら、3月に社民党議員の国政報告会に首をつっこんで、チベット問題について訴えようとして、あっさり追い払われたあと…

党関係者が、私に近付いて「君は何を訴えたかったんだ?」と尋ねてきた。そして自分は海外を色々見て回っていて、世の中はマスコミの報じるようなものじゃない、などと話を始めた。要するに、チベット問題についてはメディアスクラムが組まれており、中国を非難するのは、それに乗せられた愚かな行為だと言いたかったようだ。

私は、はじめ少し抗弁したが、まともにとってもらえなかった。でも、銃創のある死体写真のプリントアウトを見せたとき、はじめて党関係者の表情が変わった。
(残酷な写真です)
http://www.tchrd.org/press/2008/pr20080318c.html

私はできるだけ礼儀正しく「これも捏造の可能性はある」と断ったが、党関係者の表情はそんなことを信じてはいなかった。けっきょく、その人を説得することなんて、できなかったが、最後は「君の主張はばかばかしい」という態度ではなくなった。

そんな手にはのらない、という心の冷え切った人間だっていくらでもいる。しかし少なくとも、宗教でも政治でもなく、子供たちのためにネット規制を、と訴える市民の多くはそうではない。私になにができるか。書物を調べ、過去にあった検閲をみて、その恐ろしさを伝える努力をすべきか。できるかな。