ニセ科学・ニセ科学批判史の必要

ニセ科学批判の現状への提案をする前に考えて欲しいこと
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20090304/p1

読んでいて目の前が真っ暗になってきてしまった。
…このようにニセ科学批判が「秘儀」化しているのであれば、もう救いようがないのではないか?

という訳にもいかないので、Wikiをいじったりしつつ、ニセ科学とその批判の歴史を整理できないか考えている。

誰かが言った。我々は巨人の肩に乗った小人だと。
私は大学時代、文献史学をやった。歴史とは過去の人がなにを考え、どのように行動し、勝利しあるいは失敗したかを、学び、人間について知ることだ。そして過去について騙されないようにすること。

しかし正直、数学史とか物理学史、文学史、あるいは史学史というものについては価値を疑問視していた。そんなものを出す意味があるのか?学問は単に解き明かされた真実さえ載っていればよいではないかと。
今にして分かるのだが、やはり必要だったのだ。例えば史学は批判と止揚の積み重ねだ。ブルクハルトなりホイジンガなりピレンヌなりの画期的主張に対し、後代の学者が最新の研究成果をもとに批判を重ね、それを乗り越えて、また新たな画期的主張を生み出していく。最新の研究についてだけ概説書を読んでも、それが「なにを乗り越えてきたか」を知らないと、正しく理解できない場合が多い。

こうした批判と止揚の積み重ねは、しかしともすれば後進が続く際に障壁になる。つまり巨人の肩に乗るのが大変だということだ。
そこで巨人の足元から、頭のてっぺんまでのエレベーターを用意する。史学の発展の流れをすばやく追えるように、価値のない枝葉の論文をすっ飛ばして、どのような議論があったかをつかめるよう、「史学史」の本が書かれる。みなさんも、学問のトバ口に立ったとき、過去の研究の流れをオリエンテーションで受けたり、前提として読むべき書籍をレジュメを渡されたりしただろう。史学史はつまり、それを体系化したものだ。

もちろん、日本のネット上におけるニセ科学批判は学問ではない。学問というのはまずもって「体系化」と、学会などの「客観的評価」を必要とするが、現状のニセ科学批判はどちらも拒否しており、ありがちな不毛な議論等々とスネた主張で自己弁護に汲々とするばかりだ。

とはいえ、これまでのニセ科学批判がまったくの無価値だという意味ではない…呪術師や薬師の知識がそうであるように。学問未満の知識の積み重ねであっても、将来はそれらを体系化し、教育による再現、つまり「ニセ科学対策士」といった技能なり教養なりの持ち主をコンスタントに生み出すことが、不可能という訳ではないだろう。

中世のある時点においては、例えば楽士が自らの技能を体系化することを拒み、秘儀化することで神秘性と権威を保ち、長老になればなるほどその蓄積ゆえに貴重な存在となっていき…戦争や疫病などによって後継者を作らないまま消滅する、というもの悲しいできごとがあった。
今日、ブログがその活動の中心であるニセ科学批判は記録の面では恵まれ、後継者を志す人が辛抱強く読み解いていくことはできるから、ある意味では希望がある。

とはいえ…ニセ科学批判者の側が、自らの知識の体系化に熱心ではなく、前述の「ありがちな不毛な議論」の文章に見られるように「部外者」からの疑問や批判に強い拒否感を示す繊細な神経の持ち主…であるという現状は…一定以上にそのサークルに近づける人間を限定する。

これらの「ハードルの高さ」を乗り越えてニセ科学批判のプロになろうというものは、軍事オタクや鉄道オタクと同様の、その分野に対する愛着の深さを求められる。ある技能、知識の取得、伝授に、その人間の個人的特性が大きく左右されるような分野は、発展性を持ちうるだろうか?発展性を必要としないともいえる。

つまり一部の秘儀精通者が、信奉者を指揮してニセ科学と戦うだけで十分であり、信者はそのサークルの「正しさ」を信じていさえすればいいという考え方もある。

これは私が信じる教育の理想とは対極にある価値観だが、どちらがニセ科学との戦いにおいて有益であるかとは言えない。つまり敵(ニセ科学)そっくりのカルト的構造を持つことも、同胞意識の強さとか、集団の結束の面でいえば有利だといえなくもないからだ。

【追記】2009/03/06

ただし、これはニセ科学の浸透を「予防」するという面においてもやや暗い影を投げかけている。
我々になじみぶかい「教育学」という分野、教師という技能と教養の持ち主をコンスタントに生産する意義のある学問を見てみよう。
現在の教育におけるデモシカ教師(失敬)工場生産のありさまが正しいとはいえないが、一定の教育を行える教養人を生み出していることは確かだ。

ニセ科学批判は、その啓蒙活動を「均質に」「一定水準で」行える人材というものを、まったく求めていない。その基本スタンスは「勝手にやって」である。「間違いはあるかもしれないけど、なにかあれば職員室でつっこむから」。これはまぁ教師に一定水準を求められなかった時代のほほえましい風景ではあるかもしれないが、今日のように野蛮あるいは非科学が主体を備えて暴れ回っている時代において、なお牧歌的美点を保ち得るであろうか?一種の悪夢の世界ではないだろうか。

私が言っているのは、子供にニセ科学に対する懐疑主義的思考を「教育」する話ではない。子供を「教育」する人を「教育」するための仕組みについて話している。両者はまったく別のものだ。
近代においては。

かつてアジアに西洋文明を伝えた宣教師や修道士でさえ、教会において適当に自習で神の戦士としての業を習ったのではなく、所定の課程を終えて旅立ったのであある。

実のところ、疑似科学側が先に教育制度を整えないとはいえない。インテリジェント・デザインにしろ、長く続けば理論の体系化と、「宣教師の養成」が始まる恐れはある。

ここでもまた…日本のニセ科学批判は敵に一歩先んじられるかもしれない。ニセ科学批判が秘儀化に邁進する一方で、ニセ科学が「近代化」を遂げた場合、やはり私はまた罪悪感を噛みしめねばならないだろうか。ニセ科学批判者が悪いのではない。かわいそうな彼等に「画期的な手法」を示し、実演できなかった自分が悪いのだと。まさか?どんな自惚れやだそれは。