左翼の衰退

1960年代後半に絶頂に達し、その後1970年代に入って幾多の徒花を咲かせながらも急速に衰退した左翼運動について、その戦術や方法論が誤っていたとか、敗北の原因をあれこれ思い返してみたくはない。引き潮は先進国にひとしなみな傾向であったし。他人事の教科書めいた言い回しをあえてするなら、日本においては公労組の解体が、社会党の支持基盤を崩した。運動としての左翼は完全に衰えた。(その是非がどうあれ)

今日における左翼の残りカスはみじめだ。かつての運動を懐古する元闘士や、その形式をいわば伝統としてなぞる泡沫の活動家たち(分断され、ますます数を減らしていく時代遅れの分子)。思想を保ちながら、学界などで細々と日陰に生きる連中。

そこにはびこるのは形式や教条を重んじる左翼の悪しき面が極限までいきついた思考。さもなければ当事者意識の希薄さ。闘争意欲のなさ。傍観主義は、正確な現状認識からくる諦観ともいえるが。

今日の左翼が持つ、右翼やそれに付き従う大衆への侮蔑(!)は、もはやヴナロードなど言うだけうすら寒いからこそ、生じてくるものだ。デマゴーグとそれに操られる人々を分断し、後者を取り込むためには、デマゴーグの戦術を理解し、その弱点を探らねばならないが、デマゴーグとして認識すること自体を放棄しているのではもはや…。実のところ、こうした分断はむしろ、敵の得意とするところとなり、彼等の思うがままに、左翼はひっそくしている。

偏執狂として、(そしてそれが当り前として)指導者が「蛇の頭を切り離せ」といった認識を周囲に押し付けた時代もあった。今はかつての呪術めいた「運動」の方法論から解き放たれたともいえるが、あるいは断片化した方法論の一部を呪術として学んだ者が、蛇の頭を切り離そうと、こうした右翼への浅薄な侮蔑をつむいでいるのかもしれない。しかし、蛇の頭と尾の区別もついてはいないのだ。

右翼…右翼という言葉にも郷愁はある。今は古くなってしまった左翼にとって、それはともに運動するものであり、敵でありながらなお、どこかしら相通じる存在ではあった。だが今は違う。

私にとって、インターネットの罪深さは、すべてが随分前にはっきりしていた現実を覆い隠し、なにか希望を錯覚させたことにある。
いや、私が失敗したのか。それとも過去の左翼への郷愁が、あの運動を今日の日本に移した場合の問題点などに目をつぶらせているのか。

いずれにせよ。私には道が分からない。かつて言論は運動と表裏一体だった。しかし私はその基礎となる組織作りについては何も知らなかった。組織はすでにあったから。

いや、忘れよう。もうどうしようもない。
しかし何かできるはずだ。何か。左翼の無為無策も、状況の産物に過ぎない。火を付けるきっかけさえあれば。言葉を並べて動かない連中は最後までいるだろうが、しかし大多数は動く。何かあるはずだ。常に方法はあって、それが薄ボンヤリした私には見えないだけだ。

やはり今の生活を捨てなくてはだめか。だがこの生活は、やっと手に入れたもの。かげがえのないもの。
これを守りたいからこそ、正義を求めているというのに。
だが失うしかない。このままでは。平和も正義も平等も寛容も。