独善でない創作

親が子供の枕もとでお話をつむぐとき、その物語はすべて子供のためにある。精一杯の力を使って創作をするが、自分の満足のためではない。

たとえばスティーブンソンの宝島とか、多くの優れた児童文学がそうだ。書き手は全身全霊をこめて、読者のために作品を送り出す。心にはっきりと描ける、たとえば自分の息子のため、娘のため、あるいは子供時代の自分のため。子供の心理の普遍性をその細部にいたるまで把握し、若芽のような心に、最もよい風を光を、水を、そして火を与えようとする。

日本では児童文学も商業化してひさしく、どこぞの誰かの吹聴する「カネ儲けになる文化だけが生き残る」を地で行っているわけだが…。生き残った文化はみじめなものだ…。好きだ、と思う作家は今も多いけれど、例えば、あさのあつこの作品を、子供のための文学の精華とは私は、呼べない。

赤い鳥とか、少年少女文庫とか。過ぎ去ったあの空気。商業出版が、商業であるまいとしたあの矛盾した態度。
カネ儲けとは別の理想で動いていたあの人々…そこにはまた商売人も多く出入りし、だからこそ、支えられ、ゆがめられ…。
しかしその原動力となっていたものは、「俺を認めてくれ」でもなければ「カネカネカネ」でもなかった。

そういうものもある。いくら否定しようともあるのだ。どちらにも属さないものが。
それが良いか悪いかは分からない。

「ただの昼飯はない」といって偽善を批判したハインラインさえ、ジュヴナイル小説の名手で、そこで彼は、利己主義や功利主義の重要さを描きながら、その論理に決して従わない魂の高潔さを描いた。彼のSFはしょせんSFだが、ジュヴナイルは黄金に輝く文学の名作といって差し支えないと私は評価する。それは確かに子供のために描かれた。