羨み

ネットをやっていて面白いのは、id:Yagokoroさんのように自分とまったく「常識」の違った相手に会えることだ。しかも向こうからの働きかけによって。

そして職場や私生活ではまず耳にできないようなことを、ブログなら見られる。
いつも思うのは、もしかしたら、私が会っている取引先、起居をともにする家族、いっしょに酒を飲む趣味の同じ仲間さえ、内心は詩情と矛盾と反社会精神がつまっていて、ひそかにブログで爆発させているんじゃないか?

ひるがえって自分はどうだろう。まぁ、飲み屋で友人にくだを巻く程度の話しかしていない。
床屋政談、つまらぬ「倫理」の発露、わい談、下ネタ。

くだらないことだ。エキセントリックで、鋭くて、危うくて、繊細な感情を表現する彼等の言葉に比べ、私のそれは屁理屈だらけで、退屈で、実に「左翼的」だ。

(1)「善や倫理を押し付けるヤツは許せない」。なぜ私にはそう言い切れないんだ。ガキのころはよくそうやって教師や親に反抗していたのに…。「殺すなかれ、盗むなかれ、騙すなかれ」いやそれだけじゃない「子供やお年寄り、女性を大切にしましょう」「困っている人がいたら、できる範囲で助けてあげましょう」「道ばたにゴミを捨てるのは止めましょう」。おまけに、カタギを半殺しにしてるチンピラがいたら、たとえ「俺は自分の職責を果たしてるだけだ」とかいってても、一応、止めに入りましょう、と来る。
(民事不介入!ってかそんな恐いことできねーよ。ヤクザはヤクザの常識で動いてるんだから、もう見解の相違って話で勘弁してくれよ…)。

ああ倫理、倫理、倫理、規範意識?市民の職責?社会人というやつは、このムカつく左翼的な「精神の檻」に入れられて、他人にそれを強要し、自らも守り、じつに抑圧されて、不自由に生きている。それを否定するだけの勇気は私にはない。なんかフリーダムすぎて不安なのだ。我ながら臆病もの…。

(2)馬鹿に見える奴を見つけたから、特に用はなくても馬鹿と呼びかける。それもまたできない。すぐに、めんどくさい、やっかいに巻き込まれる、どうでもいいことに時間を使いたくない、なぜ馬鹿と読んだのか説明する手間が生じる、といった予防意識が働く。

考えてみると、これだって「左翼的」な小市民意識の現れだ。馬鹿そうな奴を道ばたで見つけたら、とりあえず「馬鹿」と聞こえそうなところで呼んでみる。ガキのころはよくやっていたじゃないか。ピンポンダッシュとか。鬱屈した感情を、そうやって発散してた。罪もない無邪気な行為。いつごろから止めたんだっけ。相手に、なぜ馬鹿と呼びかけたのかと問いただされ、発言がやっかいな「責任」という奴を伴うのを、おぼろげながら認識するようになってからだ。おまけにケンカがからっきし弱くて、いじめられっ子だったから、身のほどを知るようになった。ケンカの強いいじめっ子たちはその後も気軽に「馬鹿」「馬鹿」と連呼していた。

だから俺は倫理に頼る左翼になったのかな。倫理が幅を利かせていれば、道ばたでいきなり殴られてカネをとられたり、レイプされたり、殺されたり、「馬鹿」と呼ばれることもない。そうだな。本当に力があれば、倫理をあてにせず、気軽に「馬鹿」と呼びながら生きつづけていただろう。

自分が弱さゆえに失ってしまったものを、他人が持ちつづけている。それがひどく新鮮で、うらやましいのかもしれない。強さが、自由さが。

まったく「左翼」ってのはみじめな生き方だ。でも、弱いから、自由より、安心を求める。