創作は独善

id:wideangle これに対する反論として「意にそぐわない二次創作どうするのよ」が出てきてしまう可能性があるのでアブないと思う。 / ディズニーは自分とこできっちり世界観を維持するための努力を行っているわけだ、っと。

wideangleが言う「意にそぐわない」が「誰の意にそぐわない」ことなのか、私はちゃんと分かっていないのだが、あえて「作者の」と判断することにしよう。

作者の意にそぐう二次創作なんて、あまりない。
私…の友人は、よく知り合いの商業作家の二次創作をしたり、二次創作に対する三次創作とでもいうべきものを作り、内輪におひろめする。【追記】私は小説を書くが、二次創作の対象は戯曲だったり、漫画だったり、小説だったり、一枚のイラストだったり、録音した声だったりする。
相手の反応は、複雑、不愉快、やってくれたなこの野郎、といったところだ。そんなものだ。事前の許可を求めたこともあるし、ないこともある。まぁ仲間だから、たいてい許してもらえるわけだ。プロもアマもいい年して貧乏でうだつが上がらない、ってのもあるけどね。

いずれにせよ作者が素直に喜べる二次創作なんてものは、正直ほとんどないと思う。作品礼讚の信者が作ったものでも。
なぜなら「二次創作は作者への贈物」ではないからだ。作品への愛はあるかもしれないが、それすら描き手の自己中心的な愛なのだ。鬼女の愛。
二次創作を描くのは、作者のためじゃない。自分のためだ。
そして言ってしまうと、一次創作(けっ)の作者も、読者への贈物ではなく、自分のために描いている。

…いや「私は読者のみんなに夢や希望を与えたくて描いてる、歌ってる、演じている」という人もいる。それを偽善だとはいえない。なぜなら、人の心はたやすく測れず、自分のために描いていると自覚している者さえ、無意識に幾分かは読者のために描いていたりするのだ。自他の境界線があいまいになるのも、この創作というやつの特徴だ。それに苦しむこともしばしばある…。

だから、文芸や芸能の世界に生きる人が、二次創作の書き手にある種の近しさ感じ、攻撃をためらうとすれば、「自分の作品を愛してくれてるのに」という理由より、「あれは俺だ。昔の俺だ…いや今の俺もやっぱりそうなんだ」という理由なんだ。

そういう活動を否定してしまうのは、自分を否定するのと同じだからだ。自分の呼吸や食事や思考を悪だと断じるようなものだからだ。

…以下は蛇足。

もっとも年をとってくれば次第に自分の世界が固まって、ほかの作品の影響を受けなくなる場合が多い。「それが大家だ」ともいえる。

けれど年をとっても感性の鋭い人は、若いころと同じようにほかの作品から刺激を受け続ける。どんなに蓄積があっても、これまで築き上げてきた世界がすべて崩れ落ちてしまうほどの衝撃を受ける場合もある。
それを恐れず(いや恐れながらも受け入れ)、自分から絶えず外部の作品を吸収し、生涯その作風を変えていく人もいる。
正直、うらやましくもあり、気の毒でもある。彼等は、天才だから。

だから、「流行ものに次々のっかって作風を変えて、同人作家だって商業的」という批判は、あたっているとすれば、ちょっとすごいことでもある。

絶えず自分の作風をぶっ壊して、新しいものを取り入るなんて、天才とは程遠い同人作家ができるなら…すごい。
才能より、道徳とか習慣が、そうした新陳代謝を阻んでいたんだとすれば、「二次創作」の世界って素晴らしいじゃないか?それは文芸や芸能の変化を速める。淀んだ水ではなく、激流に。模倣を自由にやれる空気!その空気だけで、天才にしかできないと思われてきたことが我々にもできる。じゃぁ、天才にはなにができるようになるんだろう!

…でも現実には、同人作家は自分が青春時代を燃やしたジャンルにけっこうこだわるし、世代ごとに階層化した読者を持ってる。その境界を自由に出入りして、どんなジャンルでも楽しみ、取り込み、自分のものにできる人は、決して多くない…だがコミケという「サラダボウル」がそういう混ぜこぜをうながすとするなら(1―3日目まで全部行く人もいるしね!)、そこにもまたコミケの価値はあるな。不自由の象徴、なんて言ったけどさ。【追記】でも私は、ここ、インターネットこそ、国境をも超えてすべてを混ぜ合わせる最大のサラダボウルだと信じたい。

独善でない創作

親が子供の枕もとでお話をつむぐとき、その物語はすべて子供のためにある。精一杯の力を使って創作をするが、自分の満足のためではない。

たとえばスティーブンソンの宝島とか、多くの優れた児童文学がそうだ。書き手は全身全霊をこめて、読者のために作品を送り出す。心にはっきりと描ける、たとえば自分の息子のため、娘のため、あるいは子供時代の自分のため。子供の心理の普遍性をその細部にいたるまで把握し、若芽のような心に、最もよい風を光を、水を、そして火を与えようとする。

日本では児童文学も商業化してひさしく、どこぞの誰かの吹聴する「カネ儲けになる文化だけが生き残る」を地で行っているわけだが…。生き残った文化はみじめなものだ…。好きだ、と思う作家は今も多いけれど、例えば、あさのあつこの作品を、子供のための文学の精華とは私は、呼べない。

赤い鳥とか、少年少女文庫とか。過ぎ去ったあの空気。商業出版が、商業であるまいとしたあの矛盾した態度。
カネ儲けとは別の理想で動いていたあの人々…そこにはまた商売人も多く出入りし、だからこそ、支えられ、ゆがめられ…。
しかしその原動力となっていたものは、「俺を認めてくれ」でもなければ「カネカネカネ」でもなかった。

そういうものもある。いくら否定しようともあるのだ。どちらにも属さないものが。
それが良いか悪いかは分からない。

「ただの昼飯はない」といって偽善を批判したハインラインさえ、ジュヴナイル小説の名手で、そこで彼は、利己主義や功利主義の重要さを描きながら、その論理に決して従わない魂の高潔さを描いた。彼のSFはしょせんSFだが、ジュヴナイルは黄金に輝く文学の名作といって差し支えないと私は評価する。それは確かに子供のために描かれた。